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日立鉱山電車廃線跡めぐりと周辺散策

訪問/撮影日 2009年1月14日、2010年4月10日

コース:JR日立駅(助川駅跡)→天王町踏切跡→芝内駅跡→鹿野場ポンプ場→高鈴台団地→高鈴山(断念)→採石場→鉄塔見晴台→大雄院バス停→一の鳥居→日立中央工業団地→堆積ダム跡?→日立中央工業団地→本山寺→芝内バス停(バス乗車)→JR日立駅

日立鉱山電車の廃線巡りを途中までした後、本当は高鈴山に登ろうと思ったけど、途中で道がわからなくなってしまい、高鈴山は断念した。高鈴台団地の登山口から入り、1時間強ほど歩いたところで金山方面との分岐点に出るが、登山道だと思っていたら頻繁にトラックが行き交う未舗装の林道でビックリした。実はそこは日立セメント(株)稲荷鉱体の土地で、関係者以外立入禁止の採石場だった(トラックの運転手さんには何も言われなかったけど)。
Google Mapsの航空写真には採石場がきちんと写っているけど(ここ)、国土地理院地形図やGoogle Mapsには林道が記載されていないので、最近つくられたのかも?高鈴台団地の登山口から採石場までの山道は、周辺で稼働している日立鉱山関連施設からの(有毒ガスを含んだ?)煙の影響か、大変臭かった。しかも採石場近辺の林道は黄色い粉塵がたくさんまっていて、林の中にはヘドロが溜まったような水たまりもあり、いかにも体に悪そうな環境だった。採石場近辺では発破作業もしているようで、遠くからもときおりパンッ!パンッ!という大きな音が聞こえた。 それを はじめ猟銃の音かと勘違いしてしまった自分は、慌てて熊よけベルをつけながら山道を歩いたのだった(でも日立の山にクマっているのかなー?)。 高鈴山はまた今度トライすることにしよう。 その後、悔し紛れに道のない山道を下山したりと、意味のない時間浪費をしてしまった。 結局日立中央工業団地に行き、本山寺に行き、その日は探索を終えた。 今度はもっと計画性をもって訪れたい…。

日立鉱山電車(通称 助鉄・じょてつ)

操業:明治41年(1908年)頃〜昭和35年(1960年)
1944年(昭和19年) 常北電気鉄道(株)→日立電鉄(株) 改名


日立鉱山電車 停留所
助川荷扱所・現日立駅 ⇔ 柴内荷扱所 ⇔ 杉本荷扱所 ⇔ 大雄院荷扱所

地図:Google Maps(日立鉱山・大雄院)





▼JR日立駅 現ホームは古い石造のプラットホームに嵩増ししている。



▼日立駅のホームの屋根を支えている柱は、どうやら古レールのよう。
 こちらのサイトさんでレポしてある。→日立駅の変貌報告シリーズB - 日立大好き - Yahoo!ブログ







▼日立駅の改札口に続く跨線橋



▼跨線橋の屋根もたぶん古レール…



▼日立駅前にあるシビックセンター(中央)と(株)JWAYの建物(左)。
シビックセンターのあたり一帯が旧日立鉱山電車の資材置き場で、(株)JWAYのあたりが旧助川駅だったらしい。



▼助川駅の跡にできたらしい、(株)JWAYの建物。



▼シビックセンターおよびイトーヨーカドーの前の広場一帯が日立鉱山電車の資材置き場だった。



▼イトーヨーカドーやマクドナルドなどの飲食店に挟まれた歩行者専用通路がかつての日立鉱山電車の軌道。



▼けやき通りから先は、細くてこぢんまりとした通りになる。



▼真っ直ぐ伸びる一筋の軌道跡。



▼軌道は古びた小さな歓楽街の前を通り抜けていく。



▼はっきりした場所は分からないが、この辺が天王町踏切跡らしい。
  2000年頃までこの付近に踏切遮断機の竿受けの跡が残っていたようだが、その後整備されたのか、よくわからなかった。



▼2つの道路に挟まれた真ん中の花壇の部分が日立鉱山電車軌道跡。
 左の「そば処玉半」の建物は当時のままらしい。
 軌道跡の両側に細いアスファルト道が2本作られた。
 なぜ軌道跡そのものを道路にしなかったのか不明と「鉄道廃線跡を歩く」にも書かれていた。



▼かつてのままらしい「そば処玉半」の建物(左)と、駐車場化した軌道跡(右)。



▼「そば処玉半」の建物(奥)は、日立鉱山電車現役時代のままらしい。
  手前の軌道跡は駐車場化している。



▼鉱山電車が廃止された当時(昭和35年/1960年)に建てられたかのような古い飲食店が数軒立ち並ぶ。
  軌道跡に沿ってそのまま建てられているため、建物はどれも細くて厚みが無い。





▼駐車場化した軌道跡(左)。



▼この付近に宿踏切があったらしいが、いまいちはっきりした場所はわからなかった。
2000年頃までは宿踏切付近の駐車場に古い木製電柱の跡も残っていたらしいが、それも見つけられなかった。



▼国道6号・陸前浜街道をわたり、更に軌道跡は東日本銀行とカクタス日立ビルの間を突き進む。
 正面の水色の塀は日立電線工場の建物。



▼軌道跡は日立電線工場の古い建物の前を右折。



▼さらに軌道跡は月極駐車場となって民家の間を突き進む(真ん中に2本ある道の左側)。



▼廃線跡は一度道路で分断され、そこから先は策が設けられ自由に往来できなくなっている。
  かつてはこのあたりから築堤が始まっていたらしい。
  現在築堤は一部を残して切り崩され、市役所の駐車場にされている。



▼かつては日立鉱山電車の築堤があった日立市役所の駐車場。

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▼現在残っている日立鉱山電車の築堤の一部(左側の白い車の奥にある土手)。
  



▼現在残っている築堤の一部。
 築堤の上には木製電柱と赤錆びた鉄柵が見える。
 防災倉庫の奥には廃屋のような腰の塚ポンプ室がある。



▼日立鉱山電車の築堤のわきにある腰の塚ポンプ室。



▼日立鉱山電車の築堤。



▼築堤の先には小さな川をわたる橋がある。



▼築堤の上にのぼってみる。



▼線路跡はそのまま助川町駐車場にされている。



▼軌道跡の築堤をそのまま転用した助川町駐車場



▼助川町駐車場の片隅には古い石垣の一部がぽつんと残されているが、これも日立鉱山電車時代のものかなぁ。



▼軌道跡はその後市営諏訪台団地および日鉱金属日立工場雄峰寮の敷地内を突き抜けていく。
  この辺ははっきりした位置関係がわからないけど、駐車場の白線がそのまま軌道跡を示しているんじゃないかと勝手に推定。



▼桜はもう散り始めだった。



▼市営諏訪台団地および日鉱金属日立工場雄峰寮の敷地内を突き抜けた鉱山電車は、ここから県道36号沿いに出たのかなと推定。



▼日鉱金属日立工場雄峰寮
  この辺の集合住宅街の中を鉱山電車がどのように通っていたのかちょっとわからない。



▼この一帯の集合住宅(社宅?)は戦前からあったようだが、一部はすっかり解体されている。



▼いずれは解体されると思われる諏訪台の住宅。



▼こちらは日鉱池の内アパート(たぶん)



▼軌道(左)は少し高台だった諏訪台の団地から徐々に高度を下げて県道36号に出る。



▼中央に芝内バス停留所あり。
 たぶんここが芝内駅の跡だと思う。
  こちらのサイトさんの当時の写真と見比べると面白い。 



▼日立山手工場前の廃コンビニ店舗からは、県道36号より一本奥まった所にある小さな細い通りが廃線跡だと推定。



▼日鉱金属 日立工場 電錬工場。
 なんとこのクラシカルな建物は、こちらの写真を見る限り形が似ているので、鉱山電車現役時代のもののようだ。



▼ここから一度廃線跡探索を切り上げて、高鈴山登山に向かい出す(引き続き廃線探索を見る場合はこちら
 冒頭に書いたとおり、道がわからなくなったため、途中で断念したけど。
 登山口のある高鈴台団地に向かう途中で見かけた万城内というバス停。
 かつての万城内はこんな感じだったらしい。





▼昔から集落があったような雰囲気の万城内の民家。



▼高鈴台団地の入口付近で見かけた鹿野場ポンプ場。
 木造建築物に木製電柱、背の低いコンクリ造の塔。
  見た感じ相当古そうだけども詳しいことはわからない。







▼高鈴台団地にある鹿野場遺跡公園。坂道の上にある高台なので、とても眺めが良い。
 日立の駅や海の方まで見渡せる。



▼鹿野場遺跡公園からの景色。駅近くにある日立セメント工場が見える。



▼高鈴台団地の登山口



▼日立駅は海沿いだし、高鈴山でも623mと標高が低いので、登山といってもほとんど森歩きに近い。
 しかも日立鉱山が近くなるにつれて段々変な匂いが漂ってくるので、気持ちの良い森林散策という感じではなかった。
 はじめのうちは「ずいぶん臭い森だな」などと軽く考えていたけれど、たぶんリサイクル処理の体に良くない粉塵が周辺にまっていたんだろう。
 日立鉱山がきれいに見えるかもしれないという期待で登り始めた高鈴山だったけど、終始木々に視界を遮られて全然眺めは良くなかった。



▼採石場の林道に出るまでは、良くてこれくらいの景色しか見れなかった。



▼日立セメント関連の林道に出る。
  結構頻繁に工事用車両が往来している。
  関係者以外立入禁止と気づいたのは後々だったけども、高鈴山への登山道はこの辺のどこにあったんだろう。



▼発破危険区域立入禁止の看板。実際、周辺の山々に発破の音が鳴り響いているし。
  トラックがゆっくり1台走り去るだけであたり一面黄色くなるほどの土煙がまう。こわい。



▼採石場につくと、そこで道は行き止まりになっていた。
 しかし結局高鈴山への道は発見できず…。
 地図に記載されていないということは、この採石場や林道はそんなに最近できたものなのかなー。



▼荒涼とした風景。正面の山は大白峰(362m)かな。その右側に日立鉱山の大煙突が見える。



▼ここまで来ると大煙突周辺の風景が見えるようになるけれど、絶景というほどではない。

2012/12/14追記:もしかして大煙突の奥にあるなだらかな丘(てっぺんが薄い色になってる部分)は、蛇塚の展望台じゃないかな。2012年6月に神峰山に登ったとき、向こうの稜線からもこちらの採石場らしきものが見えたので。



▼高鈴山への登山は諦めて、元きた道を戻った。
 でも完全なピストン往復はつまらないし、元の場所まで戻るにも結構距離があったので、途中通り過ごした分岐の別の道に行ってみることにした。
 そこは常磐自動車道から300mほど西にある分岐で、たどり着くと眺めの良い高台に鉄塔があり、行き止まりになっていた。



▼その鉄塔のある高台も日立鉱山はよく見えなかったが、海側の市街地の風景は素晴らしかった。



▼たぶん今回見た中で一番気持ちの良い場所だったと思う。



鉄塔で行き止まりになっていた道だけど、やっぱりピストン往復が嫌で、最短で大雄院前の県道36号に出たいがために、自分の背丈ほどもある草や木の生い茂った山の斜面(常磐自動車道の西側の急斜面)をヤブ漕ぎしながらほぼ垂直に下り降りた。
結果は…最悪だった。
イバラのようなトゲのついた植物が多く茂っていて、そこを突破するのに小傷だらけになってしまった。
急ぐならばやはり無理はするもんじゃない。
でもおかげで県道前の斜面にあった日立鉱山電車の遺構を見逃さずにすんだ。

▼下ってきた斜面を振り返る。



▼県道前の斜面にあった日立鉱山電車の遺構。
 ここからまた日立鉱山電車廃線跡巡りにもどる。終点駅の大雄院まであとわずか。





▼小さな沢にかかった日立鉱山電車の橋台跡



▼日立鉱山電車の築堤に登るゆるい階段。



▼大雄院の駅跡まで県道沿いに廃線跡は続く。
 場所によってはかなりきれいに路面の状態が残っている。





▼日立鉱山電車の橋台?とおぼしきもの。違うかも、だけど。



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▼ブロックの途切れたところに日立鉱山電車の橋梁が残っている。









▼周辺にあったこの柵は当時のものかなぁ。



▼周囲にはこんな朽ちた道標もあった。
 「神峯山登山口」と書いてある?
 神峯山って日鉱記念館の前にある山で、全然場所的に違うんだが…。
 なぜこんな所に廃棄したんだろう。




2009-01-14 

▼宮田川対岸の日立鉱山の敷地内に見えた古い階段



▼大雄院のゆるいカーブ沿いにある小さな階段。



▼階段の上に残る日立鉱山電車の遺構。



▼かつて日立鉱山電車・大雄院駅(大雄院荷扱所)があった一帯。
 ここから日立鉱山への引込線も伸びていた。
 今はバス停および駐車場になっている。
  右端にちらっと見える白い建物は鉱山事務所。


2009-01-14

▼現在も使われている大雄院事務所前バス停で使われている屋根付き待合室。
  鉱山電車が廃止された直後、昭和35年(1960年)頃に設置されたものかな?


2009-01-14


2009-01-14


2009-01-14

▼かつて引き込み線がたくさん敷かれ、社宅なども立ち並んでいたらしい大雄院駅跡の一帯。




2009-01-14

▼帰路に着くにはしばらく時間があったので、本山寺の方まで足をのばしてみることにした(引き続き廃線探索を見る場合はこちら
 日立鉱山電車現役時代に作られた大白峰橋(たいはくほうばし)。昭和10年頃竣工。
 大雄院に現在もひっそりと残っている。









▼一の鳥居  (日立鉱山・一の鳥居参照
 1940年頃は、ここに毎日朝鮮人を監視するための見張りがいたらしい。
 こちらのサイトさんに「一の鳥居は神峰神社奥の院の参道」と書かれていた。
  この機会にその道筋を確かめてみることにしたが…。



▼一の鳥居から沢沿いに続く道筋ははっきりした踏み跡がある。



▼200mほど突き進んだところで古びた橋に行き当たった。
そこは日立中央工業団地の土手下で、背の高い雑草が生い茂り、完全に道はなくなっていた。



▼橋から日立中央工業団地の土手上を見上げる。
 なにこれ・・・と思いつつ、仕方ないので土手の上の舗装路に戻り、日立中央工業団地付近を散策してまわることにした。



▼現在は特にこれといったものが何もない日立中央工業団地。
  かつてここには石灰山の社宅が立ち並んでおり、この通りは石灰山社宅のメインストリートだった。
 全く面影はないけれど、石灰山倶楽部や巡査駐在所や供給所や浴場もあったらしい。
 今は閑散としている。



▼石灰山通りを突き当たりまで進み、その先の山道を少し散策してみることにした。
 ここからかつて本山劇場・一本杉のあたりに抜ける山道がある(あった)らしい。
 今は荒廃して分別つかない状態になっているかもしれないけども。
 山道に入るとすぐに不自然に水のたまった場所などが現れてくる。



▼しばらく進むと治山ダムが出てくる。



▼治山ダムを越えた所に手すりのついた一筋の排水溝があり、それに沿って登っていく。
 かなり急登。



▼急登が終わるとそこは人工的に整地された平坦な場所だった。
 雑草は荒れ放題だったが。
 地図にはここが記載がないが、航空写真を見る限り堆積ダムか何か?



▼自分が登ってきた場所をGoogle Mapsの航空写真で見ると、こんな感じになっている。
 本山劇場の方への道は根本的に違っていた。
 かつてはこの上空を日立鉱山の索道が通っていたようだ。



▼時間も差し迫ってきたので引き返すことにした。
 日立中央工業団地のメインストリートをそのまま下ると本山寺にたどり着く。
 想像以上に小さく、一般の寺としての機能はほとんどしていないようだった。
 中国人及び韓国人殉難者のための慰霊碑が2つあった。
 しかし訪れる人も殆どいなそうなひっそりとした雰囲気だった。
 足元を見ると立派な水芭蕉が咲いていた。
 本山寺の敷地内を流れる湧き水が湿地帯化したためらしい。













▼壊れたまま放置された慰霊碑もひとつあり。
 これは何のための慰霊碑だったんだろう。



本山寺をあとにし、大雄院を通り過ぎ、芝内バス停まで歩き、そこからバスに乗った。
以下の写真はその道中で見た日立鉱山電車廃線跡のようす。

▼かつては左手の黒い土手あたりを日立鉱山電車の引込線が走っていたようだ(参考)。



▼黒い土手の上あたりを日立鉱山電車の引込線が走っていたようだ(参考)。



▼日立有料道路と共楽館(現・日立市武道館)の中間付近の廃線跡



▼共楽館付近の日立鉱山電車廃線跡



▼共楽館付近のの日立鉱山電車廃線跡
 このあたりがたぶん杉本駅があった所だと思う。
 かつては杉本駅から高鈴台団地の中間辺りにも石灰石採掘場があり、杉本駅から引込線が伸びていたらしい。
 現在の鬱蒼と茂った林を見ると想像がつかないけども。



▼同じく、日立鉱山電車の杉本駅があったと思われる所。
  共楽館〜日鉱金属日立工場付近



▼日鉱金属日立工場付近のの日立鉱山電車廃線跡



▼日鉱金属日立工場付近のの日立鉱山電車廃線跡



▼2010年4月、共楽館(現・日立市武道館)は改修工事を行っていた。



▼かつて芝内駅があったらしい芝内バス停からバスにのって帰途。
 とても疲れた1日だった。



- - - - - - - - - - - - 以下は、資料編。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

参考:
日本鉄道切符公園/日立鉱山電車
日立鉱山電車 INDEX ISAOの日立写真館
日立鉱山−2 煙突と鉱山事務所 ISAOの日立写真館
日立鉱山探訪 〜某映画のロケの撮影場所は?★情報提供募集★ いばらき解体新書。
※日立鉱山臨時掲示板  〜日立鉱山全盛期は大賑わいだった 〜 いばらき解体新書。
JR日立駅 以前の町並み きらら
日鉱記念館 (日立市) 日立市の名所・旧跡 スポット紹介 きらら
日立電鉄 - Wikipedia

ふるさと叢書 鉱山電車むかし話 無賃電車が走った町 日立 柴田勇一郎 筑波書林 昭和60年 (1985年) 絶版。
日鉱記念館に展示してあったもの。



▼日立鉱山電車 軌道延長(昭和11年5月当時) 幹線5km 支線27km(日鉱記念館展示) 





▼かつての日立鉱山大雄院電車停留所付近(白熊写真館発行)。乗車人はここで乗降した。
右端上部の建物は大雄院事務所の一部。」(日立鉱山の絵葉書 井上真治より)



▼日立鉱山大雄院電車停留所
「大雄院電車停留所より助川方向が撮影されている。写真左側の屋根に窓が付いた建物はこちらの写真の右下の建物。」
(日立鉱山の絵葉書 井上真治より)



▼日立鉱山 助川荷扱所 電車乗場 白熊写真館発行。
「人員の輸送(便乗)については、明治41年10月8日、「日立鉱山専用鉄道列車便乗認可願」が申請された。同年の11月13日便乗が認可された。また明治42年2月1日「便乗車認可申請書」(便乗車=客車の仕様についての申請書)が提出され、同年の2月12日同申請が認可された(注1)。絵葉書の写真の建物は電車の乗り場で、ここで乗降した。」(日立鉱山の絵葉書 井上真治より) (注1)柴田勇一郎 新装版 鉱山電車むかし話 P.57-62



▼日立鉱山 助川荷扱所 大正前期
「明治41年に設けられた日立鉱山電車、その起点となる助川駅にあった日立鉱山助川停留所。荷扱所は昭和58年(1983年)廃止、その跡地が駅前開発用地となった。遠くに大煙突が見える。」(日立の絵はがき紀行 1910-40年代 日立市郷土博物館より) 

JR日立駅から200〜300mほど離れた場所にあるシビックセンター(複合商業文化施設)は日立鉱山電車の操車場と資材置き場を再開発したもの。鉱山電車は町の中心から市役所の横を通り、精練所まで走り、1960年に廃止になるまで、市民の無料の足としても利用されていた。



▼日立鉱山 助川荷扱所



▼日立鉱山 助川荷扱所

日立鉱山 助川荷扱所

▼日立市助川停車場 昭和14年
「日立市が誕生するのは昭和14年9月1日、駅名が日立駅と変わるのはやや遅れて10月20日のこと。」
(日立の絵はがき紀行 1910-40年代 日立市郷土博物館より) 



▼日立鉱山 助川荷扱所電車乗場



▼日立鉱山 助川大雄院間電車進行中 後方海岸の遠景 水戸寺田書店発行

日立 鉱山電車

その他のアーカイブ写真はこちらに。←東北大学

▼日立鉱山電車線路から 日立鉱山 製錬所 溶鉱炉 付近を望む
「白熊写真館発行。製錬所奥(こちらの絵葉書の左上の白色の煙道の下側あたり)から撮影されていると思われる。一番奥の建物は第一溶鉱炉。大正6年訂正再販の日立鉱山写真帖(田辺勝邪)P.29には、左側手前の二段屋根の建物が第一焼粉炉と説明されている。」(日立鉱山の絵葉書 井上真治より)



▼日立鉱山大雄院役宅停留所 白熊写真館製版部製
「役宅停留所は新町にあった荷扱所である。伊師米吉の回顧録P.191「日立片々」から引用すると、『従業員の増加につれて、この出退勤の便に六輌連結して運転し、その後乙型便乗車という腰掛のない追込式の車(仕切りをつけず沢山の人が入れるようにした車両)ができ、続いて備後畳を敷いた腰掛付きの甲型便乗車ができたが、これは役員便乗者と称して役員およびその家族だけが乗る事ができたのである。そして役員および家族には白パスを、従業員およびその家族には赤パスを交付して差別待遇をされたほか、課長以上の時は甲型便乗車を貸切にしてしまった程である。ある日、時の所長であった角彌太郎氏が本社からの帰途貸切便乗車に乗られたが、ちょうど盛夏の頃なので、従業員の家族が海水浴の帰りで赤パスの方の車両は超満員で、赤子は泣きわめくし、かなりの人が乗れないのに、役員用の白パス車は横になれる程の空き様で、角所長も差別待遇をまざまざと見せられて、大変憤慨されて、このようなやり方はとても僕には満足できないとして、客扱所主任であった某氏を一喝されて、それ以来、過去における差別待遇は解消された』とある。絵葉書の写真はまさにこの当時の様子を記録するものであろう。」(日立鉱山の絵葉書 井上真治より) 

日立鉱山は東北の鉱山と比べると比較的クリーンなイメージがあるが、やっぱりそれなりに裏の歴史(?)のようなものはあった訳で・・・こちらのサイトさんにも本山寺に眠る中国人強制労働殉難者について書かれているが、足尾銅山の小滝地区で見かけた申し訳程度の朝鮮人労働者の追悼碑を思い出した。外国人であれ日本人であれ差別は良くないよ・・・(→「日本鉱業日立鉱山での朝鮮人強制労働」にかなり生々しい記録が載っている)。

日立鉱山大雄院役宅停留所


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