(同和鉱業) 小坂鉄道・花岡線の廃線跡と花岡事件の跡めぐり
訪問/撮影日 1999年10月6日、2007年1月18日、2009年9月21日 ツイート▼小坂鉄道 沿革
大正3年(1914) | 大館〜小坂間 花岡鉱山専用鉄道として開業。 |
大正4年(1915) | 小坂鉄道に買収され花岡線となる。 |
大正5年(1916) | 旅客輸送開始。 |
不明 | 同和鉱業の系列となる。 |
昭和59年(1984) | 花岡鉱山閉山 |
昭和60年(1985)3月31日 | 花岡線廃止。 |
※同系列の小坂鉄道・小坂線は別に記載。 |
停 留 所 |
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花岡事件の概要 昭和19年から20年にかけて、986人(内、途中死亡7人)の中国人が花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所へ連行された。彼らは花岡川の改修工事、鉱滓堆積ダム工事の掘削や盛土作業に従事させられ、道具はシャベルとツルハシ、モッコだった。 作業所での扱いは過酷なもので、補導員の中には指導の名のもとに激しい暴行を加える者もいて、加えて敗戦直前の時期から国内の食糧事情の悪化が彼らの上 にも重くのしかかり、耐えがたい暴行と空腹で精神に異常をきたす者もでた。「中山寮」に強制連行された979人のうち137人が死亡し、更に暴行や栄 養不良で身動きできない重症者が多くいた。 餓死か、暴行によって殺されるか、という状況の中で、耿諄大隊長ほか7人の幹部は「このままではみんな殺されてしまう。もはや一日も忍耐できない、蜂起 するしかない」と考えた。寮内の動きを調べ、蜂起は6月30日の真夜中と決定。しかし、計画が知れわたると規制がきかない者もでてきて統制は大きく崩 れ、以後の組織的行動は不可能となった。とりあえず逃走命令を発しそれぞれ逃げたが、重症者の一群は神山付近で最初に捕まり、次に身体の弱ってい る一群が旧松峰付近で捕まってしまい、残る主力集団約300人も獅子ケ森山中に逃げ込み抵抗はしたものの食糧も水も無く力尽き次々と捕らえられてしまった。 捕まった者たちは7月1、2、3日と共楽館前広場に炎天下のもと数珠繋ぎに縛られ、座ったままの姿勢でさらされた。3日の夜に雨が降ったため何人かは死なずにすんだが、大勢が亡くなった。 死体は10日間も放置されたあと、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で三つの大きな穴が掘られ埋められた。この後も中国人の悲惨な状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が亡くなった。 終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れ、棺桶から手足のはみ出ている中国人の死体を見つけ、その日のうちに詳細な調査を開始した。こうして「花岡事件」が明らかになっていった。 なお、敗戦後に行われたBC級戦犯横浜裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、 終身刑などに減刑されている。 花岡事件 大館市より引用 |
▼中山寮 花岡にあった中国人労働者の収容所
※画像のリンク先は中国サイトになっています。クリックは自己責任でお願いします。
▼骨と皮ばかりにやせこけた中山寮の中国人労工たち(1945年)
▼大量に出土した中国人労働者の遺骨
▼1:25000地形図に軌線跡を記入 |
▼空中写真に花岡線の所在を記入
▼近年の空中写真(Yahoo!地図 航空写真)に花岡線の所在を記入
▼大館駅〜街道端・稲荷山下 | ▼街道端・稲荷山下〜松峰・泉田 | ▼松峰・泉田〜共楽館・堂屋敷 |
▼花岡〜松峰鉱床位置図(大館郷土博物館展示)
地図:
国土地理院 2万5千分1地形図名: 大館(弘前)
Google Maps
参考文献:
鉄道廃線跡を歩く〈7〉 宮脇俊三(著)
花岡事件 (FOR BEGINNERSシリーズ) 石飛仁(著), 西川塾(イラスト)
大館地方の歴史散歩 無明舎出版
参考サイト:
花岡事件を歩く
花岡鉱山 - Wikipedia
同和鉱業花岡線 秋田各駅停車の旅
〈遺骨は叫ぶD〉 秋田・花岡鉱山 生き埋めの朝鮮人救わず見殺し
横浜BC級戦犯者処刑一覧 〇仙台俘虜収容所
花岡事件 大館市
釈迦内小学校周辺散策 大山へ登る(釈迦内小学校通学路回想 黒鉱に翻弄された同級生達へ)
花岡事件と私たち 秋田・花岡事件に学ぶ会
花岡現地フィールドワーク
「中国人強制連行と花岡事件」に関する取り組み 秋田県本部/大館市役所職員労働組合
[PDF] 大館市ビューマップ(大館市サイト)
中国人強制連行を考える会 花岡事件
花岡鉱山
大館 鶏めし 花善 懐かしのアルバム 小坂鉄道
腕木式信号機 その1 きはゆに資料
秋田県 大館市のお城一覧
秋田県の鉱山
▼JR大館駅。利用客数のわりに広々として大きな駅舎と、駅前ロータリー。
そのせいで一層閑散とした空気が強く感じられていたが、久しぶりに訪れたら観光客が増えていて驚いた。
駅前のハチ公像の写真を撮る人などもいたので、やっぱり映画『HACHI 約束の犬』(原題:Hachi)の影響かな?
昔はあまり観光客を見かけるような町ではなかった気がするが、連休中のせいか駅前の食堂が盛況だった。
駅を出て右側にあった観光案内所の建物は解体され、観光案内所は左側に移動していた。
▼JR大館駅を出て右側にある貨物置き場と引込み線スペース。
花岡鉱山および小坂鉄道が稼動していた時代に貨物の積み替えが行われた場所がそのまま定着したのだろう。
小坂鉄道・花岡線の大館駅舎はここから100mほど先の場所にあった(2000年6月に解体)。
奥羽本線や花輪線と小坂鉄道ではレール幅が違うので、貨物の積み替えおよび乗換を行わなければならなかった。
▼現存していた頃の小坂鉄道 花岡線 大館駅(撮影日:1999年10月06日)。小坂鉄道・小坂線とも共用の駅舎だった。 今から60年以上前の1944年(昭和44年)、花岡事件で亡くなった中国人達も、JR奥羽本線の大館駅から乗り換えて、約100m先のこの駅から花岡鉱山に向かったのだった。
▼2009年9月現在の小坂鉄道 花岡線 大館駅跡地周辺。整地?しているようだった。
▼小坂鉄道・大館駅跡地にもっとも近い踏切。
数年前まで小坂線は普通に貨物列車が往来していたから、いきなりの廃線風情に驚いてしまった。
あとで調べてみたら、小坂鉄道はとうとう小坂線の貨物の運行も2008年3月に廃止してしまったそうだ。
踏切のいたる所に「前方鉄道廃止 一時停止不要 段差注意 大館警察署 小坂製錬(株)」の看板が設置してあった。
なんだかとても寂しいなぁ・・・。
▼真っ黒に塗りつぶされた踏切の信号機。なんだか不気味な気さえする。
▼踏切から眺めた廃線跡と鳳凰山。毎年夏に行われる鳳凰山の大文字焼きは大館の夏の風物詩。
参考:鳳凰山 (秋田県) - Wikipedia
▼反対(西)側。小坂鉄道は駅舎よりも長く伸びて奥羽本線や花輪線と隣接するようになっていた。
▼踏切近くにあった建物。よく見ると「小坂製錬株式会社 小坂鉄道大館駅」の看板が。
比較的新しそうに見えるが、いつ設置された建物だろう。
小坂線が旅客輸送を廃止して貨物専業鉄道になった1994年に建てなおした駅舎とか?
▼軌道跡に残る信号機。
▼雑草の生い茂る廃線跡。運行を廃止してから約1年半後の秋の風景。
▼御成町(駅前通りの突き当たり)の踏切。遠くにある茶色い背の高い建物は大館ロイヤルホテル。
手動信号(腕木式信号機)のある踏切として有名だった。
参考:腕木式信号機 その1 きはゆに資料
▼同じく、御成町(駅前通りの突き当たり)にある踏切にて。
ここから東大館駅方面まで、かつて大館の中枢をなしていた商店街が始まる。
▼同じく、御成町(駅前通りの突き当たり)にある踏切にて。
▼蔦に侵食される廃線跡。運行を廃止してから約1年半後の秋の風景。
▼花岡線と小坂線の分岐点。
右側の倒れ掛かっている鉄柵のあたりから花岡線は小坂線とわかれ左側に延びていた。
道路の微妙なゆがみがかつて分岐点だったことを物語っている。ここから花岡線の築堤が始まる。
▼小坂鉄道 花岡線廃線跡 築堤のはじまり。
小坂線との分岐点から、奥羽本線を超えた200m先あたりまで築堤は続く。真ん中の草が生い茂った場所が廃線跡。
▼小坂鉄道 花岡線廃線跡 コンクリ造の築堤。
▼小坂鉄道 花岡線廃線跡の小さな橋台。築堤は水路を跨ぐ。
▼JR奥羽本線との交差部分(大館駅東側)に残る花岡線の築堤とコンクリ造の跨線橋の橋台(北側)。
▼JR奥羽本線との交差部分(大館駅東側)に残る花岡線の築堤とコンクリ造の跨線橋の橋台(南側)。
▼花岡土建の敷地越しに築堤(正面の緑の土手)を眺める。
▼築堤終了部分。JR奥羽本線を跨いで200mほど北に進んだ地点でひときわ高く盛土された築堤は終わる。
▼築堤が終了した辺りからは普通の民家(住宅地)を縫う形で廃線跡が続く。
廃線跡は立入禁止になっている場所も多いが、一部は砂利を敷き詰められ公道として使用されているみたい。
特に建造物が建つわけでもなく、一見して廃線跡だとわかる地形がそのまま残っている。
▼廃線土地は大館市によって管理されているみたい。
▼新松峰橋。下内川にかかっている。コンクリートの橋脚にプレートガーダーがかかる。
小坂鉄道・花岡線最大の遺構。正面に見える高い山は標高375.7mの大山。隣に並行する剣道よりも低く小さな橋梁。
▼新松峰橋プレートガーダー。下にくぐってみる。
▼県道に沿って水田の中を北に直進すると、じきに松峰駅(松峰停留所)跡地にたどり着く(左側の水田沿いの空地)。といっても、駅であったことが分かる形跡は全くない。大正5年 (1916年)に旅客輸送を開始した花岡線だが、当初大館駅と花岡駅以外に駅はなかった。旧松峰集落が地底の採鉱によって地盤沈下をきたしたため、同和鉱業と鉱害補償交渉の上、昭和48〜52年(1973〜1977年)に現在の松峰地区に集団移転を余儀なくされたのだった。集団移転に伴って新たに松峰の駅が昭和48年(1973年)に設置されたが、ホームと待合室だけの簡素な駅だった。移転する前の旧松峰地区は、菅江真澄の旅行記にも登場するほど歴史ある集落だった。
▼昭和50年の集団移転完了間近の松峰地区と松峰駅の簡素なホーム(参考:釈迦内地区の航空写真)
なお、松峰は花岡でなく、旧釈迦内村の地域にあたるらしい。現在の松峰地区のようすはYahoo!地図の航空写真を見るとよくわかる。
▼松峰駅をさらに北に突き進むと、左右を旧同和鉱業松峰鉱山部の施設にはさまれる形となる。
右側の小高い丘は、花岡鉱山最後のヤマといわれた松峰鉱山。
松峰鉱の選鉱場が、標高135.9mの大森山(右)の斜面にぽつんと立っている。
松峰鉱は、1963年(昭和38年)鉱床が発見され、花岡鉱山最後の有力鉱山として期待された。
が、1994年3月29日に閉山してしまった。現在はDOWAエコシステム花岡の施設となっている。
▼松峰鉱の坑内系統図(大館郷土博物館展示)。左上に小さく弧を描いているのが大森山。
一番上の水平線から下はすべて地下坑内のようすなので、その深さと規模にビックリする。
松峰鉱は一見こぢんまりとして見えるけれど、地下に大森山の何倍もの深さの穴が掘られているなんて。
▼昭和38年頃の松峰地区ボーリング風景。中央が大森山?大館郷土博物館展示。
▼DOWAエコシステム花岡のシックナー群
▼この巨大施設は松峰鉱の精鉱舎。
かつてこの施設から鉛精鉱や硫化精鉱(含有量を高めた鉱石)が積み出されて小坂鉱山の精錬所に送られていた。
手前道路に沿って小坂鉄道・花岡線が走っていた。この付近には引込み線も沢山あった。
▼県道が北東に折れるところで一度県道と離れる。旧花岡川の西側を通り、同和鉱業・白根山社宅の南端で再び県道と合流。
しかし白根山団地は既に解体されてしまい、一面雑草の生い茂った空き野原となっている。
▼花岡の中では比較的あたらしめと思われる花岡サテライトハイツも、既に住民は撤退し、廃団地となっている。
サテライトハイツの前のバス停は、2009年9月現在も「白根山団地」という名前のままになっている。
▼白根山団地の空き地前から堂屋敷(北側)方面をのぞむ。この辺から商店などが出てきて、少しひらけた雰囲気。
でも左側のススキの生い茂った部分にかつて小坂鉄道が走っていたとは思えない。
▼昭和40年竣工の堤沢橋。隣に花岡線の小さな橋梁も残る。
▼花岡線の堤沢橋の橋梁は、木材も使われている。下を流れる大森川(旧花岡川)は、滝ノ沢沈殿池から流れてくるもので、酸化鉄の沈殿で赤錆びた色をしている。今でも花岡鉱山の中和水が流されているのではないか、とのこと。しかし2000年09月30日発行の河北新報朝刊では「清流化進む大館の大森川」と題し「大館市内を流れる大森川(旧花岡川)の生息調査で29日、今まで生息が確認されていなかったブラックバスが見つかった。」という記事が発表されたらしい。
参考:ブラックバス問題 ニュース・ヘッドライン(バスおよび移入生物関連の報道と動静)
▼廃線跡はさらに同和レアアース株式会社・花岡工場の敷地の端をまっすぐ突き進む。
この工場は昭和50年の航空写真に写っていないので、昭和50年以降に社宅か役宅かの跡地に建てられたみたい。
▼ようやく終点・花岡駅の跡地付近に到着。
線路は撤去されているが、いかにも鉄道の終点駅っぽい広々とした地形がそのまま残っている。
左の赤い屋根の建物は鉄道現役時代からあるもので、1975年の航空写真で確認できる。 鉄道関連施設?
遠くの煙は稼動中のリサイクル施設。
▼花岡の駅舎は、写真中央アスファルトで舗装された土地の黄線から右側にあったのだと思う。
左側に引込線が数本敷かれていた。引込線は花岡駅舎より200mほど北側まで延びていた。
▼引込線跡の北端から花岡駅跡方面を眺めたところ。引込み線の跡そのまんまに細長い地形。
右側の細長い建物は鉄道現役時代からあるもの。鉄道関連施設?花岡線の追跡はひとまずこれで終了。
▼以下は、周辺の気になる施設など。
久留島公園内にある同和鉱業花岡鉱山の同屋敷坑記念碑。
久留島公園は鉱山病院の前庭でもあり、昭和39年(1964年)に花矢町によって造られた。
同和鉱業発展の礎をつくった元社長・久留島秀三氏にちなんで命名。
昭和59年(1984年)7月7日に花岡鉱業所所長・小竹康雄によって改園整備された。
弔魂碑などもあり、タイムカプセルも埋設されている。
▼私立花岡体育館。花岡事件の現場である共楽館の跡地に建つ。市立体育館から弓道場までの一帯が、かつての共楽館広場だった。1945年(昭和20年)、姥沢の中山寮 で寝泊りし花岡川の改修工事にあたっていた約800人の中国人労働者が、過酷な労働にたえかね、集団蜂起・脱走し、次々と捕縛され、共楽館広場に一 斉に集められ、3日3晩にわたり拷問を受け、総計400名以上が死亡した(花岡事件)。共楽館は1941年(昭和16年)1月に建築された木造一部2階建ての本格的映写設備を持った立派な建物で、花岡鉱山で働く人々のための娯楽施設(映画・演劇・演芸、集会場)だった。小坂鉱山の娯楽施設である康楽館は観 光施設として改修・公開されているが、花岡の共楽館は1979年(昭和54年)に解体された。現在、体育館の敷地には共楽館址の石碑がたてられている。
▼体育館の敷地に建つ共楽館址の石碑。全文は花岡事件を歩く 7に記載。
▼かつては繁華街だった桜町。
1965年・1975年の航空写真を見ると桜町にはビッシリ建物が並んでいるが、今は廃屋や空き地が多い。
左側の建物は「ウロコ寿司」だと思うが、営業はしていないようだった。寂しげなほど静か。
▼廃スーパーマーケット(旧・同友花岡店)1970年(昭和45年)8月2日にオープンした、同友というスーパーマーケット。同友が倒産した後、スーパーだいさんが出店したが、なにぶん人通りが少ないので、やはり倒産してしまった。同友は1969年に同和鉱業から分社化した会社。藤田組(現DOWAホールディングス)により、小坂鉱山労働者の福利厚生のための供給所(現在のスーパーマーケットに相当)として開設されたのがその始まりだった。2002年、同友はマックスバリュに吸収合併され、同友という会社は消えた。この牛乳プリンみたいなマークが同友のマークだったのかな。昔、滝ノ沢共同浴場に行った帰り、バスの待ち時間に同友でお菓子を買って食べたのになあ。寂しい。
参考:同友-Wikipedia
参考:★☆★新大館市スレ//Part19★☆☆ まちBBS
▼獅子ヶ森にある大館家具木工協同組合。廃工場かと思ったら、なんと驚いたことに、ちゃんとHPまである施設だった。現役稼動?
かつてここは秋田県林業指導所の用地であったらしい。林業試験場の工場部門廃止により工場を引受けたのが昭和39年らしい。
これはその頃から存在する建物なのかな。
参考:大館家具木工協同組合